写真だって感情は撮れない

写真だって感情は撮れない

 僕は甘党だ。クラスで一番じゃないかってぐらい。なのにアフタヌーンティーのケーキを全て食べきれなかった。毎日アイスを三本は食べてる僕が、ケーキを食べきることができなかった。これは甘党としてあるまじきことだ。でもそんなことよりももっと悲しい事があった。それはアフタヌーンティーのあとに起こった。

 班の人が「バスケがしたい」と突然言い出しバスケットボールコートに行くことになったのだ。先生曰く、この後はお土産を見るとのことだったので、興味ないし別にいいかなと思っていた。しかしそんなことはなかった。僕たちがバスケができなかったため店に戻ろうとしていたとき、なんと皆は集合写真を撮っていた。しかも海で。これはみんなのipodやipadの壁紙に使われることはまず間違いないし、何ならホームページにも載るだろう。そんな写真に僕らは写っていないのだ。写れなかった。本当にバカだった。しかもその代わりにできたことは、結局バスケットボールではなく、ただの散歩だった。きっと将来、同窓会でその写真を見た時には、僕達が写真に写っていないことなんて、誰も覚えていないだろう。心に入るヒビが大きすぎる。まぁ、その写真さえ見なければ、こんなことはすぐに忘れられるんですけどね。

 あまりにもネガティブすぎることばかり書いてしまったので、そろそろポジティブなことを書こうと思う。でも僕がポジティブな話を書くと、本当にありきたりな文章になってしまう。感情を一言も書かないただの日記になってしまう。僕はどんなにいい思い出を作ろうとそれをいい作文という記録として残す事ができない。

 写真だって記録だと言われればそうだが、それはただの僕が書いているポジティブな作文に過ぎない。みんなは作文を書くことによって、感情を記憶として残している。だけど僕はできない。しかし、それは短所ではなく長所だと思っている。なぜなら記録として残せないがために、その瞬間を誰よりも明確に記憶していなければいないといけないからだ。これは幼少期からの「長期的な記憶力の良さ」に繋がっていると僕は思っている。これは視覚障害者が触覚や聴覚に優れていることとまったく同じことだと僕は考える。だからこれからも、僕は作文という形ではなく、記憶を記憶として忘れないでいたいと思っている。

 今回のアウティングでも、出来事だけでなく、しっかりと記憶されたその時その瞬間の感情は、これからもずっと僕の中に残ると思う。
(中学部3年生 男子)