無期限のコロナ禍で私たちが記憶に刻むこと

無期限のコロナ禍で私たちが記憶に刻むこと

立教生活二年目の年は、一年間の半分も学校で過ごすことができなかった。一学期は日本で過ごし、二学期はなんとか学校へ帰ることができた。オンライン、ソーシャルディスタンス、バブル。こんな形に変化した立教もあるんだ、最初は新鮮に感じた。

コロナウイルスが私達にもたらした変化は決して期限付きのものではなかった。いつまで続くかわからない。アウティング、ギルフォードショッピング、ウィンブルドン、、、。無くなったものの例を上げたらきりがない。卒業を控えていて今年度の色々な行事が最後になってしまう人だっていた。けれどウイルスにそんなことは関係ないらしく、無情に奪い去っていく。

コロナウイルスに圧倒されながらもなんとか学校生活を取り戻しかけた矢先、またもや学校が閉じてしまった。一年生の頃に戻りたいとは思わないけれど、すべてが揃った立教生活を過ごせたのが一年前だと思うとなんだか寂しい。この不安定さはいつまで続くのだろう、と不安に思う。

学校でみんなと過ごせるのが当たり前じゃない、一年前の私にこれを言っても信じないだろう。これまでの「当たり前」が通じないウイルス。これは何も今の立教に限ったことじゃないのかもしれない。

この一年を振り返るとどうしても暗い方向に考えてしまう。世界中の人が我慢に我慢を強いられた。けれどある時気がついた。奪われたもの、失ったものばかり数えるよりできたことを記憶に刻むほうが良い。確かに一年の三分の一しか学校には帰れなかったけれど、三ヶ月だけでもみんなと過ごせた。学校に帰れない辛さが身にしみた後だったから、今までのどの時よりありがたみを感じることができた濃い三ヶ月でもあった。

こればかりは尽力してくださった先生方に頭が上がらない。

(中学部2年生 女子)