チャプレンより(第6回)

日本と比べてイギリスの緯度は高い位置にあります。
そのため、イギリスの冬は長く、そして暗い時間が一日の大半を占めます。夕方四時くらいになると、もう真っ暗となってしまいます。
冬至は昨年ですと十二月二十一日ですから、クリスマス(十二月二十五日)はまさに暗闇の中で行われます。クリスマスはイエス様のお誕生を祝う日ですが、それが暗闇の中で行われることは実に象徴的です。

イエス様は若く貧しい夫婦のもとにお生まれになりました。その誕生は決して恵まれたものではありませんでした。時の権力者に庶民達は翻弄され、身重だった妻マリアと共に夫ヨセフは旅にでなくてはなりませんでした。出産前夜、しかし宿屋はどこも満員で、彼らはやっとのことで馬小屋を借り、そこでイエス様がお生まれになったのです。
赤ちゃんというものは実に弱く、人間の愛なしに生きることはできません。赤ちゃんの存在は、私達に「愛する」ということを教えてくれます。
と、同時に、その弱い赤ちゃんの「温もり」は、強い立場である大人の私達に、「愛」というものを伝えてくれるものです。

「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネによる福音書第一章四~五節)という聖書の一節が、真冬の世界に響きます。

かくして冬が終わり、春が近づいてきます。
イギリスではどんどん日が長くなり、太陽の眩しさと温もり、また春の花々や冬眠から目覚めたリスやウサギなどの動物が、命の豊かさを感じさせます。
今年の春分の日は三月二十一日ですから、イースター(主イエスが十字架にて死に、復活されたことを記念する日)は四月一日となっています。イースターは春分の日の後の最初の満月の次の日曜日ですから、毎年移動する祝日です。
ちなみにイギリスの現地の学校では春休みと言わずにイースターホリデーと言いまして、毎年その春休みの期間が変動します。それはイースターに合わせて社会が動いているからです。生活の暦においても、イギリスがキリスト教国であることを実感する時期です。

イースターがこの春にあるのもまた象徴的です。
私達は時には愛の意味に気づかされ、励まされることがあります。
ですが、愛すること、愛されることに、いつの間にか慣れていってしまい、愛の意味を忘れてしまいます。
そして自分は強い人間だと思い込み、自分の弱さを様々なもので覆い隠してしまいます。社会的地位や学歴や金銭、あるいは特定の正しさを振りかざし、自分を正当化しだすのです。
それは真昼の暗闇です。明るさの中で、自分は物事がよく見えている、という思い込みからなる暗闇です。

イエス様はまさに真昼の暗闇の中、人々の手によって十字架にかけられました。
ですから私達が自分自身の正しさによって誰かを傷つけるとき、見つめなければならない自分自身の弱さから目を背けるとき、愛の意味を忘れようとするとき、それは主イエスを十字架にかけることに他ならないのです。
十字架を仰ぐとき、そこには両手両足に釘打たれた主のみ姿があります。その傷は私達によって付けられた物です。その傷は誰かの傷であり、私達が人生で負った傷でもあります。

復活日(イースター)の朝、主イエスは自分を裏切った人たちのもとへ再び来られました。十字架から逃げ出したイエス様の弟子達は、自分のしたことから目を背けるために、家の戸に鍵をかけていました。
「そこに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(ヨハネによる福音書第二十章十九~二十節)のです。
その傷ついた手で主イエスは弟子達に触れられます。彼らに「温もり」が伝わります。赦しの意味が、愛の光が、彼らの暗闇の世界に再び灯るのです。

愛の光は常に私達と共にあります。たとえ私達がどんな暗闇の中にあったとしても、私達の手には「温もり」が与えられています。春の日差しの中、私達に与えられた愛の意味を深く覚え、日々を歩まれることを祈り願う次第です。イースターおめでとうございます。