チャプレンより(第5回)

主イエス・キリストの御降誕、クリスマス、おめでとうございます。
しかし何故、クリスマスにはおめでとうと言うのでしょうか。
確かに私達は誰かの誕生日を祝います。あの小さかった子が成長した時。人生の半ばに差し掛かる年齢になった、その労苦を思う時。人生の黄昏に立つその人の存在が尊く感じる時。だから、おめでとう、なのです。
 その意味で誕生日は、その人の今まで歩んだ人生に対して「おめでとう」というものです。そこには、その人生に関われたこと、その生涯から何か伝えてもらったことに対する「ありがとう」という感謝の意味が込められているのです。
 その人に感謝を伝える背景には、その人との関わりの中で自分がしてしまった過ち、悔いが残ること、「ごめんなさい」という思いがあることでしょう。このように、誕生日の「おめでとう」には「ありがとう」と「ごめんなさい」が隠されているのです。キリスト教風に言い換えますならば、感謝と悔い改めが秘められているのです。

 また、私達はもう一つの誕生日おめでとうの意味を知っています。赤ちゃんが無事産まれ、その命を祝う時です。赤ちゃんを待ち望む人々は、その子と幸せに過ごしたいと思うことでしょう。きっと人間と人間ですから、喧嘩をしたり、誤解をしたり、傷つけ合ったりすることでしょう。ですから誕生への「おめでとう」とは、これからも「ありがとう」と「ごめんなさい」を繰返すことでしょうが、あなたのことを愛し続けたい、という思いの現われなのです。それは自分が愛されたことがあるから、今度は愛する側に立ちたい、という表明でもあります。

 このように、誕生日おめでとうの意味はわかりました。では、主イエスの誕生と私達の人生、それはいったいどんな関わりがあるのでしょうか。
 ここで一つ目を留めたいことがあります。普通人間は「死んだ人間の誕生日は祝わない」ということです。「生誕150周年」という行事はあるでしょうが、その人に対しての感謝と賛美、悔い改めはありません。単に「記念する」というだけのことなのです。
 一方で、教会はどうでしょうか。キリスト教的生活の中の根本には、感謝と賛美、悔い改めがあります。これは、倫理・道徳的に、誰か友達や親とかに持つものだけではありません。何よりもまず、自分やあの人に命を与えてくれた神様に対して、感謝と賛美、悔い改めを持って、日々を過ごすものです。だからこそ、あの人やこの人に対して、感謝と賛美、悔い改めが、ますます強くなるのです。

 ですが人は、自分の身近な人にでなければ、なかなかそこまでの思いを持つことができません。そのために主イエスはこの世に来られたのです。しかしその結果どうなったか。十字架にかけられたのです。主イエスのことを慕っていた人々は皆、裏切ったのです。弟子たちは皆、十字架の時には、怖くなってその場から逃げ去り見捨てたのです。
 その時の、弟子達は、まさに「悔いが残る」状態です。何故ならば、「ごめんなさい」と言おうとしても、それを言う相手である主イエスは死んでいるのですから。ですが、主イエスは復活されました。そして、弟子達が「ごめんなさい」と言い出せない所へ現われ、赦しの言葉をかけられたのです。その時の弟子達の、感謝と賛美、悔い改めの気持ちは、どのようなものだったのでしょうか。その後の弟子達の生涯を私達は「教会」という形で知っています。愛されたから愛したい、という思いが二千年間連続していることを、「教会」が証ししているのです。

 私は先ほど、普通人間は「死んだ人間の誕生日は祝わない」ということに触れました。ですからクリスマスは、神が生きておられ私達のすぐ近くにおられることの裏返しです。クリスマスは、これからお生まれになる赤ちゃん主イエスの誕生を祝う日です。人生の旅路において、感謝と賛美、悔い改めがあったことを、愛されたことを思い出すことを求められる日です。と、同時に、赤ちゃんの誕生日を待ち望むように、これから愛そうとすることを求められる日です。
 どうかこれから迎えますクリスマスの日に、あなたが愛されたことを思い出し、また愛していこうと思いを強くすることができますように。ありがとうと、ごめんなさい、全てをこめて、神様と隣り人とにおめでとう、と言うことができますように。
皆様、クリスマスおめでとうございます。