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各教科レポート

「戦中戦後のころ」〈高野晃一チャプレン〉


戦中戦後のころ
髙 野  晃 一

 この三学期の日曜礼拝では、立教生が小五から高三まで居るので、私が同じ年令だった戦中戦後の生活について話をしました。私は当時、現在の東松山市に住んでいて、毎朝午前六時前に起き近くの広場で町内の学生と共にラジオ体操。少しでも力を抜くと太い棒でお尻を何回も殴られました。続いて一時間ばかり早足で市中幾つかの神社参拝です。その後、家に帰ってから学校に行きました。学校では朝礼があって雨の日以外は、燃料になる松根油を取るために松の木の根を掘りに行きました。今は「森林公園」になっている場所を当時は飛行場にするために松林を切り倒した所です。雨の日以外は毎日働くばかりで、勉強したくても本を読みたくても時間も本もありません。毎日雨が降ればよいと願っていました。夜は敵機に分からないようにするため電気は小さく暗く、そしてよく空襲があるため、サイレンが鳴ると夜中でも急いで起きて防空壕に駆け込む日々が続きました。
昼食は普通サツマイモ一本、それでも良い方でした。たまにお米のお握りなどを持って行くと同級生に悪く、運動場の隅で知られないように食べました。この頃はよく都幾川や沼に釣りに行きました。色々な小魚が釣れたり、うなぎを取ったりして本当に美味しく、時間があれば行きました。セリなどの食べられる野草、ハチの子など害にならない物は何でも食べました。食糧不足は戦後もかなり続きました。夏休みには軍馬の餌にするため、草を刈り干して学校に持って行かなければなりません。近くの場所は遅いと皆刈られてしまうので、早起きして行くか遠くに行くかにしていました。
男子生徒は皆お国のために志願して軍隊に行くと思っていたので、十七~十八歳頃には敵と戦って戦死すると考えていました。先生から「鬼畜米英」アメリカ人やイギリス人は人間ではなく鬼だから殺しても良いと教えられていました。ラジオ放送は毎日「我が日本軍は敵米英軍に大勝利」と放送していたのですが、その戦場は時が経てばたつほど日本に近づいて来るのです。疑いながら最後は沖縄が戦場と聞き本当ではないと思いました。当時父親は招集されて軍に派遣されていましたので家での商いは出来ませんでした。
小六年生の夏、広島と長崎に新型爆弾が投下され甚大な被害を被ったという放送がありました。後から原子爆弾ピカドンと分かりました。後に東松山に原爆の図の「丸木美術館」が出来て丸木御夫妻が来られて住み、私も良くお伺いして話を聞き、深い関心を抱くようになりました。
そして八月十五日学校に行くと、先生から正午に天皇陛下の重大放送があるから家に帰り聞くようにということで、家族と共にラジオに向かい正座して聞きました。当初何のことか分かりませんでしたが、後で日本は戦争に負けたのだと聞きました。確かにその日以来空襲は無く夜は電気も点けられ、本当に戦争が終わったのだと実感しました。もちろんラジオ体操や神社参拝も無く、教科書はありませんが毎日教室で勉強できました。学校の図書館や先生から本を借りて、読みたくて仕方が無かった本もようやく読めるようになり、凄く嬉しかったことを覚えています。
戦時中は鬼畜米英と教えていた同じ先生が、仕方の無いことですが今度は「米英の文化や民主主義を学び習うように」と全く逆のことを繰り返すので、私は先生に対して深い不信感を抱きました。そのころ友達にキリスト教徒が居て「東松山聖ルカ教会」に誘われて行きました。そこでイエス様は自分の命を掛けても人々を愛し、自分の思うことを決して曲げたりしない方であることを聖書や説教から知り、自分の信ずる道はこれだと思い洗礼を受けました。そしてその後暫らくしてから牧師として教会で働く決心をしました。
私の話を聞いて多くの生徒たちが、今自分たちは何と恵まれているのかと気付いたとか、やがて世界の平和のために働きたいと書いてきたのを読んで、話して本当に良かったと思いました。

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